2011年7月のアーカイブ

母親。

未だにやたらと色々な方から以前書いた日記について感想を頂くので、
この際追悼の意も込めて、母親について書いてみようと思う。


私の母親は彼女が当時36歳の冬に倒れ、そのまま息を引き取った。
私が10歳の時である。

それは突然やってきた。

当時、私たちの家庭内は非常に険悪であった。完全なる家庭内別居。
私にとって家族揃って食卓を囲うという経験はほとんど皆無。
両親の不仲に加え共働きということもあり、朝に作られとっくに冷たくなったおかずをレンジで温め、弟と二人で食べる夕食。そしてその後のお皿洗いが日課だった。


そして何かある度に話しに出る離婚話。長男だったこともあり私の奪い合いが幾度も繰り返される。物心ついた時にはすでに父親と母親のどちらについていくかを選択せねばならない環境にあった。

弟と二人、

『お父さん、お母さん、お願い。仲良くして。』

っと泣きながら懇願したこともあった。


父親は子供を何処かに遊びに連れていくということを一切しない人間だった。
それが何故なのかは未だに全く解らない。何か理由があったのであろうと思いたい。


ある日の大きな夫婦喧嘩の後、母親が

『忍、貴志ごめんね。気晴らしに遊びに行こうね。』

っと12月6日(日)に私の同級生と私たち兄弟、そして母親の四人でスキーに連れていってもらった。

当時子供の頃から様々な運動をしていて、冬には小樽の天狗山に三泊四日のスキー学校にも毎年通わせてもらっていたので、連れの友人と共にスキーは大人に負けないくらいズバ抜けて上手だった。
母親はまだまだぎこちなく、ボーゲン(八の字でゆっくり滑る方法)をやっと卒業できるかどうかというところ。

母親をおいて私たち子供チームはガンガン滑っていた。

途中スキー場ですれちがった際に母親から珍しく、

『忍、スキー教えてよ。』

っと言われた。


ガンガン滑りたかった私は、簡単にちゃちゃっと教えて、

『後は一人で練習してなー!』

っとまた勝手に飛ばしゲレンデに消えていった。


これが私が見た母親の最後の元気な姿となった。


夕方になり待ち合わせ時間に待ち合わせ場所に現れない母親を不思議に思い、駐車場に向かってみると車内で寝ている母親の姿があった。

一人で滑っている最中、突然ハンマーで殴られたかのようなガーンという痛みがあり、そのまま頭痛が治まらず車内で休んでいたという。

私たちはそれほど気にも止めず、『んじゃー帰ろー。』っと母親に運転を任せ帰宅した。

数日後の12月10日。

小学校が終わり、公文式(算数の塾)から帰宅した私を迎えたのは、ベットの上で唸り声をあげて嘔吐し倒れている母親の姿と、嘔吐物を掃除している弟であった。

どうしていいか判らずにうろたえる私達兄弟。
呻き声と 『あたま痛い・・・。』 を繰り返し、嘔吐し続ける母親に何をしていいか解らなかった。
時おり起き上がりトイレに嘔吐しにいく母親。
立ち上がるがまともに歩けるはずもなくすぐに倒れてしまう。


私達は隣の同級生のお母さんへ助けを求めた。
駆けつけてくれた近隣のオバさんもどうしていいか判らずにうろたえていたところに父親が帰宅。

ろくに言葉も交わせなくなっている母親に向かって父親が吐いた言葉は叱咤だった。


『順子っ!どーした?痛いじゃわからんだろっ!バカモンっ!』


冷たい。冷たすぎる言葉だ。


余談だが、この時の冷たすぎる父親の態度と怒声に嫌悪感を抱き続け、ついに私は17歳で当時通っていた高校を辞めて全てを捨てて家を出る事となる。
完全に縁を切った状態の父親と和解に至ったのは父親が大腸ガンで倒れる十数年後のこと。

その後、救急車を呼び母親を病院へ連れていくことに。


父親と隣のオバちゃんに方を担がれ歩いていく母親が、私達に残した最後の言葉。


『忍、貴志。晩ごはん作ってあげられなくてごめんね。』


死の淵の苦しみを味わいながら最期の最期まで子供達の心配をしていた。
あの顔と言葉は26年経った今でも鮮明に思い出す。

母として、女として最高の女性だったと客観的にみてもそう思う。
近所でもPTAでも評判の肝っ玉美人かーちゃんだった。
私が万引きで捕まっては泣きながら方々に土下座巡業し、ケンカして相手の子を傷つければ私を引きづり廻して事情を聞きにいく。
部活を見に来れば泣きながら応援し、学芸会を見に来ればやはり泣きながら最前列でカメラを構える。

何においても子供最優先の母親だった。その母親が幼い子供達を残し先に旅立たねばならないとは、さぞかし心残りだっただろう。


救急車で病院をたらい回しにされ、最終的に受け入れてくれた病院は、【白石脳神経外科】自宅から車で30分くらいの場所だ。


どうやら脳内の動脈に腫瘍ができていて、少しずつ大きくなり、ついには動脈を塞いでしまって破裂したとの説明を父親から聞いた。


後日、私が30歳になったという理由で親戚から本当の死因を聞いたのだが、子供の頃の父親からの折檻、暴力で脳内に腫瘍ができてしまっていたという。

ちなみにその父親(私のおじいちゃん)は母親の死後10年ほど経ったのち、自らの食道ガンを苦に病院内で自殺した。

緊急入院と手術の一週間後。

私達兄弟を母親の病室に連れ、ひとしきり母親の姿を見せたあとに、
祖母が 『お菓子買ってあげるからデパートに行こう。』
というあまりにも不自然な外出を強制される。

外出後、あまりにも不審に感じ、

『お菓子なんか要らないから病院に戻るっ!!』

っと駄々をこねたのだがなかなか戻してくれない。

最大の胸騒ぎ。何かが起きているに違いない。

隙を見て走って戻った病室で私の目に飛び込んできたのは、
人工呼吸器や心電図など全ての機器を外された母親の姿と周りで母親を取り囲むように集まり泣いている親族達。


つまりはそういう事だったのだ。

脳死からの安楽死。

まだ生きている母親を遺族の意識で殺す。
その光景を子供達に見せられないという親族達の気持ちも分かるが、
母親の死に目を騙すようにはぐらかされた息子達の気持ちが解るだろうか。
呆然と立ちすくむ事しかできない私達兄弟。
状況を理解、把握しようとすることで精一杯なのだ。
悲しみという感情なんて出てきやしない。

状況が理解できた後に沸き上がる感情は憎悪。
全ての大人達を信用できなくなってしまう。悲しみより憎しみが色濃く残る。


そして父親とはこの日を境に決定的に険悪となる。
10歳にして母親とは物理的に、父親とは精神的に孤立してしまった。


初七日はクリスマスイブ。
世間の喧騒やお祝いムードは何だか完全に他人事に感じられた。

正直、母親が他界した直後はそれほど悲しくはなかった。イマイチ実感がなかったのだ。
どこか嘘のような、どこか夢の中のような、どこかリアリティーがなく、どこか現実離れした他人事のような。
寝て起きたらいつものように朝御飯を作り、惰眠を貪る私を起こしに来てくれるような。

寂しさと悲しさが急に襲ってきたのは数年後の思春期の頃かもしれない。
こんなとき母親がいればとか、こんなとき相談できればとか、急に母親がいないということをリアルに感じられた。


私の中で後悔と反省が幾つも残っている。


母親に『スキーを教えて』と請われてほぼ無視してしまった事。
タイミングを逃すともう二度と教えてあげることができない。


次に、倒れている母親に対して無力すぎたこと。
何をしていいのかも判らずにうろたえることしか出来なかった。
もしかするとあのオロオロしていた2時間に適切な処理ができていれば助けられたのかもしれない。
少なくとも救急車を呼ぶくらいはできたはずだ。

そして、スキー場から真っ直ぐ病院に無理矢理にでも連れていければ助かっていたのかもしれない。


私がダイビングのインストラクターや経営者としてスタッフの教育を続けているのはこういう事も理由の一つなのかもしれない。
教えることができる喜びと伝えるタイミングとチャンスがある喜び。そして使命感が私の中に強く居座る。
EFRやレスキューなどもいざという時に大切な知識と技術。それが自分自身や大切な方の人生の分かれ目になる可能性だってある。


後日解った事からの戒めは、何があっても女性と子供に手をあげてはいけないということだ。それが死因だなんて後悔にも程があるだろう。
家庭内暴力は連鎖する。私も母親からかなりの折檻を受け教育されてきた。
その負の連鎖は私の代で絶ち切らねばならない。
私は決して女性と子供には手をあげないと亡き母親に誓う。

言葉を覚えるまでは人の子といえどもただの動物。
しかし、言葉を覚えたあとは人間としての躾と教育をする必要があると思う。
言葉と態度による躾と教育だ。
愛情と熱意、そして根気があればできると信じている。


最後に私は家族を持つということの責任感が人一倍大きいのかもしれない。
子供の頃から暖かい家庭というものに恵まれなかった私は家族を持つということがイマイチ実感がない。
そして、壊れるような家庭は決して作りたくない。
その際に一番傷つくのは子供達だということを痛いほど知っているからだ。

最近になってようやっと家族を持つことや結婚というものを現実的に考えるようになった。
暖かく明るい家庭を作り上げてみたいと願うようにもなってきた。
私自身の将来的なヴィジョンができつつあり、体制が整いつつあるのかもしれない。
もうそんな歳なのだろうか。

現在、新宿にてバーとダイビングショップの経営をしている。
二つ以上の事業を同時にこなすのは時間的にも肉体的にもキツい。
睡眠時間を削って働くことも多い。
私自身の休日なんて年に十数日あればいいほうだ。

そんな私をみて、タフだとか元気だとか、生き急いでいるとか感じる方が多いようだ。
あまり本人はそう思っていないのだが、身近な人間の早死にの数々を目の当たりにしてきた私は、
人生の残り時間が限られたものであるという事を人一倍感じとっているからなのかもしれない。

その時その時を精一杯動き、精一杯楽しみ、精一杯苦しみ、精一杯産み出す。
そこに妥協はない。
同じ結果、同じ着地点でも、妥協からの結果では満足度が著しく低いものとなってしまうことを知っているからだ。
そして独りで産み出すことより多くの人間と共に動き産み出す方が、多くの達成感と喜びを得られることも知っている。


最後に、改めて今読み返してみるとかなり不幸な子供時代を過ごしたな~っと感じられる。
が、本人たちは至ってそんな事はないことを付け加えておく。
ジェットコースターのような浮き沈みはあるが、至って楽しく幸せな人生を過ごしていると思う。


母親に年齢が追いついた今、ふと原点に立ち帰りたくなり、明け方酔った勢いで書きなぐってみた。

過去を思い出しながら書いていたら、酔った勢いもあり珍しく号泣してしまっていた事は誰にも内緒の方向でお願いします。(人´ω`)


泣き虫しのっち。でした。

P.S
久々の日記はちょいと真面目な内容になってしまったので、次の日記はシモネタ全開でお届けしようかと思います。それはそれで引いちゃいやよ?(*^_^*)

Test2

Test2

いよいよMDフェアまで残り一週間。

楽しみで仕方ありません。が、準備段取りが大変だにゃ~~。
あぁん、癒されたいぃ~。(^_^;)

ってことで、癒されに行ってきました。
伊豆半島の最南端まで。


昨晩、マリングのカウンターで

『先週ハンマー3回も見ちゃった(^-^)』

なんつーふざけた自慢話をされちまったもんだから火がついちまったさ。

オイラの心に火がついちまったさ。

くすぶり続けていた種火がメラメラと燃え上がっちまったさ。

オレも昔は尖ってたさ。触るモノみな傷つけてたさ。

ららばいららばいおやすみさ。


利用ショップは 海遊社 さんです。
http://www.290.jp/


個人の受けいれはすでに満員御礼。
平日、金曜日だっつーのに。当然土日は満員すぎる満員御礼。

ショップの受け入れだったら可能ですということで、急遽参戦することに決めました。

そう・・・参戦を決めたのは6月30日(木)の21:00頃。
朝4:00出発を決めて勢いだけで旅立ちました。

付き合ってくれた友人二名ありがとーーー!!


2年振りの神子元でのガイド。
神子元でのガイドはすごーーーーーっくイヤなんです。

潮の流れやらボートやらフロートやらってのは特に問題ないのですが、
気弱なオイラには、ハンマー見れなかった時の場の空気感にオイラは堪えられない・・・。
マクロ探してネチネチやってる方がいいwww

でもオイラがガイドしなきゃ潜れないってのならヤルっきゃないでしょう!!


すっげーーすっげーー丁寧で細かいブリーフィングとポイント説明をしてくれたおかげで
問題無く楽しくダイビングができました。

海遊社のガイドの皆さん、本当にありがとうございました。
またご利用させて頂きますね♪

んで、、、結果は、、、多くは語りません。

ハンマーなんて100~200匹くらいの群れ×数か所 だけだし
メジロザメなんて30匹くらいの群れがず~~っとワラワラつきまとってただけだし
カンパチやらワラサの群れがあっちこっちにいただけだし
アオウミガメも1匹だけだし
マダラトビエイが2匹、トビエイが数匹、その他のエイがワラワラだけだし
タカベやイサキの群れなんて当たり前のように点在しているだけだし・・・。

むふっ♪


1本目はマンタポイントのように根に掴まりながらのハンマーウォッチング。
噂のAポイントというやつです。

数百匹のハンマーオンリー♪


2本目はカメ根エントリーの西へ移動しながらのドリフトダイブ。
途中、すげーーー流れの強くて魚影の濃い場所があったので
根待ちしていたら・・・・・・まるでパラオ♪

大物三昧&群れ群れ三昧♪

機会があったらまたいこーっと♪

http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000027621325&owner_id=5657327

ハンマー単体.JPG

ハンマー2匹.JPG

ハンマー群れ.JPG

しのっちのセルフバーニング

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